花はよく人に例えられます。「夕顔」はひっそりと生きる女性に例えられたり、「白百合」は初恋を知ったばかりの女の子のようだと言われたり、「コスモス」は優しさと聡明さを兼ね備えた麗人のようだと言われたり、……。そうした中で、「向日葵」を見ると、童顔という言葉が浮かんできたりします。夏の大きな子どものようにも感じます。
もう「向日葵」の季節は過ぎ去ったというのに、近くの学校の築山には、未だ頭を重く垂れて夏の名残を留めています。
暑かった今夏の猛暑に耐えて、生き生きと咲いていた童顔の輝きはありませんが、「向日葵」のような5年生の啓晃君は、いつも元気いっぱい〈いい汗〉をかいています。
私は「向日葵」を前にすると、いつも啓晃君の姿が重なってしまうのです。大きな体と丸い顔、眼鏡ごしにきらきら輝く瞳、優しい笑顔、動き回る行動力、いつも子どもたちを誘って明るく球技に興じている啓晃君の姿は、太陽と微笑みを交わし合う「向日葵」の輝きに似ているように感じるのです。
啓晃君は1年生の時、クラスの遊び係としてとして一所懸命でした。2年生になって「体育係」となり、体育の時間に先頭に立って準備運動をするようになりました。運動会では応援リーダーとして活躍、いつも体を動かし「いい汗」をかいている姿が印象的でした。休み時間になると、サッカーボールを追いかけ、体育館ではバスケットボールでドリブル・シュートの練習を繰り返していた啓晃君です。今では、啓晃君のボールさばきは友達も舌を巻くほどにうまくなりました。
全校朝会でも、いつも澄み切った目を輝かせていた啓晃君です。そうした啓晃君の姿と、夏の「向日葵」の姿が重なって、これから益々逞しく成長していく啓晃君の姿に想いが広がるのです。
すると、その姿が、私のかっての教え子・正行君の姿と重なるのです。正行君は既に29歳、二人の父親です。
正行君が小学校5年生の時、国語のテストの時間のことでした。
漢字テストで、読み仮名をつける問題で、『次の漢字を読みなさい。』と出題した時のことです。
テストを終えて採点をしていたら、正行君の答案だけ答えが書いてなくて、最後に一言、「読みました。」とだけ書いてあるのです。しょうがなくて、私も、そのあとに、先生には、正行君の読んだ声が聞こえなかったので0点です。」と書いて答案を返したことがあったのです。
その正行少年は今、長岡で不動産業と電気店の社長として立派に成長しています。ときどき、一緒にお酒を飲んでは昔をを語り合い、……世の中がインスタント化して、教育も長い目で見れなくなっている現状を憂いています。
今、一抹の寂しさとホッとする気分が入り混じる夏の終わりの向日葵を眺めながら、啓晃君や正行君の姿を重ね合わせて、「大器晩成型」教育復権への想いを募らせるのです。
そして、ロングな目で、子どもの成長を見つめる目と心を磨く誓いを新たにするのです。
上記の文は、もう昔になりましたが『NHKラジオ朝の随想』の『向日葵のように』と題した放送原稿です。
学期はじめの子どもたちの揺れ動く心を想い、心が通う楽しい学校づくりに勤しむ先生方に、8月末の雨模様の空を見上げな
がら、エールを送っています。




